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考えごと(まじめな話のつづき)

社会的な自分は「役に立つ道具」であるべきで。いわゆる健康な人が存在していることだけで「評価」を得るのは不可能であろう。
悲しいけど、そういう価値観だ。
で、いろんな意味で役に立てない、生産的な活動を行えない人がいるとして、
そんな人たちには、具体的な生産活動は行えないという事実によって、
そんな人たちを会社は雇わない。
でも、ただそれだけのことだ。
遺伝子プールという考え方で生物をとらえると、遺伝子的に「劣った」ものも、総体としては「必要」なんだそうで、「優秀」なものだけでは、その生き物は「多様性」を持てず、環境の変化に対応していけない、生き延びていけないらしい。
まあ、そんな風に自分のことを捉えるのはちょっとさびしいけどね。
必要とされている感覚というのは、すごーく大事なことなんだろう。それを自分の属する社会から得られないというのは、生存の危機に陥る。知り合いがもう、長くこのことで悩み続けている。わたしも不調になったことで、このことを自分のこととして考えざるを得ない。
かといって、「生きている」ことそのものに価値を感じられるかといえば、これがなかなかむずかしい。
いわゆる健康な人にとって「働いていること」のウエイトはとても、とても大きい。それぬきで「生きている」ことは語れないだろうし。
そこから、離れた存在としての自分の価値を、いまの環境のなかでつかむっていうのは
それはつまり、自分のオリジナルなココロを大切にするということなのかと、ぼんやり感じている。
しかも、それをなにかのカタチにしない。(してもいいんだろうけど)しようとすれば、そこには、期待と失望がうまれちゃうだろうから。

ただ、自分を含め、人間を「消費単位」「生産単位」という視点で捉えるのは、やだなって思います。
たとえ、社会の価値がそうであったとしてもね。
「あなたは、ただ生まれただけで価値があるんだよ」「あなたがいることで、わたしはうれしいんだ」っていうメッセージは
そうとう意識しないと、自分にも、他人にも発せられない。
だけど「おかえり」「ただいま」っていうことばにはその意味が含まれてる気がするな。

自分の気に入ったモノをつくったり、使ったりして生きていく。そういうのが今の自分の夢。
その実現のために生きているのに、それが無理になったとき、
自分にとって価値あるなにかを、自分の存在の中にみつけられるのか。
それは自分の内側にみつけなきゃいけないことなんだろうけど、難しそう。
「つくりたいからつくる」っていう動機だけでは突き進めない。
どうしようかと、彷徨うこととしよう。
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by cubit-papa | 2005-04-25 13:11 | 覚え書き
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1967長崎生まれ。家具を中心としたデザイナーになるべく、マイペースな精進(?)の日々を送る。この猪口の量産化に向けて画策中。(最新形状です)天気がいいと仕事を中断しチャリンコに乗りたくなる症候群を発症。


by cubit-papa
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